1954 年春の金曜日の午後、イギリスのバーミンガムにあるアレクサンダー・スポーツ・グラウンドのトラックに陸上競技の熱狂的ファンが集まりました。この陸上競技イベントに参加していた人々の 1 人、ダイアン・レザーは地元の大学で働く 21 歳の分析化学者でした。
ランニングクラブのカラーである全身黒の服を着たレザーは、すでにかなり充実した午後を過ごしていいました。昼食にキッパー (典型的な英国料理) を食べた後、彼女は 800 メートルのレースを駆け抜け、次は彼女がその日に一番力を入れている 1 マイル走の競技でした。
スタートの号砲が鳴ると、レザーはすぐに走り出し、レースを最初から最後までリードし、最後の100 メートルで目覚ましいスパートを見せました。彼女が最初にテープを切ったとき、彼女のタイムは 4 分 59 秒 6 だと告げらました。「ああ、いい結果ね」と彼女は事もなげに言ったそうです。その日は5月29日で、ダイアン・レザーは1マイルを5分未満で走った最初の女性になった瞬間でした。
その月の初め、ロジャー・バニスターという名の25歳の医学生が、4分未満で1マイルを走った最初の人物として世界中で話題になっていました。バニスターは「これまで人類が達成できなかった目標の1つ」を達成したと、1954年にニューヨーク・タイムズ紙は報じました。
しかし、レザーの成し遂げた記録はマスコミに取り上げられることはほとんどありませんでした。陸上競技の歴史の中でほとんどフォーカスされなかったその一瞬。さらに重要なのは、記録簿にもその記録は載っていないということです。
オリンピック中傷キャンペーン
女性が5分を切るマイル走レースは、レザーの反応が示唆する以上に熾烈な争いでした。1953年後半、同じイギリス人のアン・オリバーが5分8秒0でレースを完走し、新記録を樹立しました。ルーマニアのエディス・トレイバルが、そのわずか2か月後に5分0秒3でこれに続きました。
そして、歴史に残るレースを終える3日前の1954年5月26日、レザーは1マイルを5分0秒2で走り、これが、バーミンガムでの次のレースでさらに頑張るきっかけとなりました。
しかし、次々と記録が破られたにもかかわらず、これらの偉業はすべて、女性のランニングがほとんど無視されていた時代に達成されています。ほとんどの場合、団体は女性のスポーツの偉業を不自然、あるいは不健康とさえみなしていたのです。
その多くは、約25年前に起こった出来事に起因しています。1920年代、国際女性スポーツ連盟は、陸上競技の包括性を高めるために熱心に働きかけました。彼らの働きかけにより、1928年のアムステルダム大会で、国際陸上競技連盟(現在の世界陸上競技連盟)が女子陸上競技を5種目追加するという実験が行われました。
オリンピック史上初めて、女子が800メートル走を走ることが認められました。しかし、役員や報道陣は、競技終了時に選手が当然ながら息切れしている様子だったと報道し、そのような競技は女性の体にとって危険であるという証拠として取り上げ、問題視しました。医学的証拠があったにもかかわらず、この中傷キャンペーンは非常に説得力があり、800メートル競技がオリンピックの恒久的な種目になっるには、1960年のローマ大会まで待たなければなりませんでした。
皆さんがグーグルで検索する前に書いておきましょう。1マイルは1610メートルにわずかに満たず、この論争の的となったレースの2倍以上の距離です。そのため、IAAFは1967年まで、女子が1マイルを走って樹立した世界記録を認定しませんでした。
レザーにとって、これらすべてが13年遅すぎました。彼女は当時、公式に歴史に名を残すことができませんでした。 「1マイルが世界記録として承認されなかったのは残念なことでした。当時、オリンピックには200メートルを超える競技がありませんでした」とレザー選手は2014年、自身の偉業達成60周年にあたりガーディアン紙にコメントした。「しかし、1954年と1958年のヨーロッパ選手権で獲得した2つの800メートル銀メダルはいつまでも私のものです。」
聖杯のようなもの
ダイアン・スーザン・レザーは、1933 年1月、バーミンガム近郊のイギリスの田舎町のストリートリーで生まれました。5 人の兄弟がいる中唯一の娘とて外科医の親の元に生まれ、スポーツに熱中して育ちました。寄宿学校ではネットボールとラクロスをプレーし、ホッケーの試合に備えてランニングを始めたと伝えられています。
このトレーニングスタイルのインスピレーションは、1952 年のヘルシンキオリンピックのラジオ放送を聞いた後に生まれました。女子 100 メートルと 200 メートルのレースにレザーは興味を引かれ、地元のランニング クラブ、バーチフィールド ハリアーズに入会しました。有名な陸上コーチのドロシー・ネルソンの指導を受け、彼女はすぐにレザーのスピードの傾向に気づき、より長い距離に挑戦するよう勧めました。
この頃、レザーは将来の夫となるエンジニアのピーター・チャールズと出会いました。彼は後に、レザーが記録更新に近づくにつれて、1マイル5分切りの目標が「聖杯のようなもの」になったことを回想しています。それでも、彼女はまだアマチュアアスリートでした。「私たちは、ランニングを仕事の後の余暇に行うものと見なしていました」とレザーは2004年にバーミンガムポスト&メール紙に語っています。「今では、ランニングはプロスポーツで、非常に競争が激しいものになっています。」
彼女は競争を恐れていたわけではなく、本当に挑戦する相手は彼女自身だったのです。翌1955年5月、レザーは1マイルを4分50秒8で走り、彼女自身の記録を破りました。同年9月には、1マイルを4分45秒0で走り、再び自己記録を更新しました。公式記録はありませんでしたが、その後7年間、1マイルをこれより速く走る女性は出てきませんでした。
誰が1マイル4分切りをするか
1月生まれの中距離ランナーには何か特別なものがあるに違いありません。フェイス・キピエゴンはレザーより3日(+61年)遅れて1994年、ケニアの地方都市ボメットでこの世に生を受けました。彼女は16歳で陸上競技を始めましたが、裸足で走っていました。それが一番楽だったからです。翌年、キピエゴンはスペインのプンタ・ウンブリアで開催された世界ジュニアクロスカントリー選手権で、靴を履かずに走って初の個人世界タイトルを獲得しました。
それから13年が経ち、キピエゴンは4分切りの1マイルを走るランナーになるかもしれませんでした。「2023年は特別な年になると日記に書いていたが、それが実現した」と彼女は昨年BBCスポーツアフリカに語っています。当時29歳だった彼女は、4時間7分64秒でレースを完走し、女子1マイルの世界記録をほぼ5秒上回りました。これまでの記録保持者はオランダ人のシファン・ハッサンで、2019年から4分12秒33のタイムでタイトルを保持していました。
では、女性が1マイルを4分未満で走る姿を見る日は、どのくらい近づいているのでしょうか?近いうちにキピエゴンの記録を7分65秒縮める人がいるのでしょうか?コーチで元アスリートのソニア・オサリバンによると、期待しないないでいた方がいいとのことです。「ざっくりとした数学的方程式で言うと、」彼女は2020年にアイリッシュ・タイムズに語っています。「2046年までに、女性が1マイルを4分未満で走る可能性がある」
ネクストジェネレーション
レザーは2018年に脳卒中で亡くなりました。しかし、死の数か月前に、彼女はもう一つのとても大切なな”サブ5マイル”を祝う機会がありました。ただし、これは記録に残るようなものではありませんでしたが。同じく中距離ランナーだった彼女の姪のエリー・レザーが、カリフォルニアの最高レベルの大学対抗競技でこの個人タイムの壁を破ったのです。
2人はとても親しい関係で、エリーは当時85歳だった大叔母からインスピレーションを得ていました。今年初め、若いレザーが英国室内選手権の1500メートル短距離で4位になったとき、ダイアンがどれほど誇らしく感じたかは想像に難くありません。
しかし、家族全員が記録破りの親戚の存在を常に知っていたわけではありませんでした。1960年のローマオリンピック後に競技ランニングから引退したレザーは、家庭を持ち、ソーシャルワーカーとして再教育を受けましたが、以前の生活については何も語らなかったそうです。娘のリンジーが新聞の切り抜きを集めたスクラップブックを偶然見つけたとき、初めてレザーの 4 人の子どもたちは母親のスポーツでの功績を知りました。
同様に、レザーが世間に認知されるまでには長い時間がかかりました。2008 年、Athletics Weekly は、史上最高の 1500 メートル走者リストで、オリンピック 2 連覇者のケリー ホームズに次ぐ第 2 位にレザーをランク付けしました。そして、イングランド陸上競技殿堂がレザーを栄誉ある選手の 1 人として殿堂入りさせたのは 2013 年になってからでした。今週、1マイル5分切りの 70 周年を迎える中、ダイアン・レザーの名前は、ついにスポーツの歴史に名を残すことになるかもしれません。
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ポラールのブログで紹介される内容は、必ずしも全ての方に当てはまるわけではございません。新しいトレーニングを試す際には、事前に医師やトレーナーと相談してください。